川崎登戸19人〇傷事件について
皆さんこんにちわ。
本日は川崎で起きた登戸19人〇傷事件についてお話していきたいと思います。
このような痛ましい事件が起き、何の落ち度も無い方々が、突然命を奪われる事になったのは、あまりに理不尽だと思うし、許せることではありません。
犯人はその後、自○を図っていますが、ご家族の方々は深い悲しみと共に、やり場のない怒りをどこに向ければいいのか?本当に苦しいと思いをしていると存じます。
これが私の身内の事だったら、絶対冷静でいられないだろうし、このような犯行を犯した犯人をこの世に生み出したのは、両親の教育問題であると私は考えているので、犯人の両親を探し出して、「同じ事をしてやりたい」と思うでしょう。
ネット上では様々な意見が出ていますが、特に多いのが「関係のない者を○して自○するんじゃねー」「自○したいなら、勝手に○ね」とか・・・
私も一部同意で、関係のない者を殺める行為については、やはり許せない・・・
でも、部外者である我々から見れば関係ない者であっても、犯人にとっては、「大いに関係ある者だった」のかもしれません。
ネット上では、自分の気持ちを吐露するような意見が散見されますが、実際問題として問題解決になる意見というのは、ごく少数のような気がします。
ただただ、「許せない」「勝手に○ね」などという事ばかりで、ストレスのはけ口になっているような意見ばかり・・・
結局は、「他人事なんだろう」という事と、「自分の人生」と「恵まれない人間の人生」が同列の苦しみであるという考えからの意見のように感じます・・・
無論「どんなに苦しい環境に置かれていても、前を向き歩いている人はいる」という意見には、私も同意します。
しかし、苦しい思いをしている時に、「どんな友人に囲まれているか?」「どんな大人が側にいるか?」で、「人生の難易度」は絶対に変化すると私は思う。
話の一端だけを聞けば、他人から見ると同じような苦しみであっても、恵まれている人達の周りには、少なからず「良い大人」や「友人」が心の支えになってくれているかもしれないし、事件を起こした犯人の周りには、指南してくれる友人や大人が、まったくいない状態であったので、人生に絶望してしまったのかもしれない。
それは、本人にしか判らない事だと思う。
このような違いを理解しようともせず、「甘えている」という一言で片づけるのではなく、「どうしてこうなってしまったのか?どうしてこのように考えてしまうのか?」という事に、可能な限りで良いから、目を向けるべきだと私は思う。
この理由については、後述したいと思います。
ネット上で声高々に述べている方達に言いたいのですが、「本当に許せない」「絶対に繰り返してはいけない」と強く思うのであれば、今後の対策等を真剣に考えるべきだし、そのような意見を発言した方が良いと思います。
まず、報道されている犯人の生い立ち等に目を向けると、幼くして両親が離婚し、どちらかが引き取るのではなく、親族の家に引き取られたようですね。
何故、どちらかの親が引き取らないのか?自分の子供が可愛いとは思わないのか?不思議でたまりません。
そして、その家庭の中で、実の子供と犯人とでは、何があっての理由からか?判りませんが、差別のようなものがされていた・・・との事ですが、可哀そうだとは思いますが、自分の子供でもない子を引き取り、ご飯を食べさせて頂けるだけでも、ありがたい事だし、そもそも大変な事だと思う・・・
ただ幼い頃では、きっとこの事は理解出来ないでしょうし、これを「理解しろ。」と子供に言うのは、あまりに酷な事であり、無理がある事だとも思います。
けれども、親族とはいえ、親ではないのですから、仕方が無いとしか言いようが無い。本当に可哀そうではあるが・・・
もしも、恨むのであれば、本当の両親の「無責任さ」を恨むべきだと思う。
そして、その怒りは実の両親に向けるべきであり、関係のない方々に向けるべきではない。
もしも、このような痛ましい事件を二度と繰り返さないようにしたいと皆が考えているのであれば、莫大な費用が掛かりますが、警備費用を捻出し、どのような場所においても警備をする必要性があるんじゃないかな?と思います。
ただし、現実的には、富裕層の子供達は守られるが、一般の方々は、保護者等が積極的に輪番制で警備活動を行い、地域の安全を守るという事になるでしょう。
希薄になっている社会で、それが出来るのか?おそらく無理だと思う。
結局のところ、最終的にはやる気のある者だけがその役をかぶる様になると思う。
また監視カメラ等は、起きてしまった事件に対して有効であり、これから起きるであろう事件に対しては、ほぼ無力である。と考えています。
○ぬ気で来ている人間には、身体を張った人間なのか?機械なのか?でないと、無理だと思います。
そして、このような事件があったとしても、人間は自分の身に起こらなければ、「自分だけは安全」と思っていて、事件も風化していくでしょう。
危険性よりも、「楽」を選ぶでしょう。
それが良いとか悪いとかではなく。
「人」が「人」に対して、冷たく感じるのが、今日の日本のように感じます。
自分の事で、いっぱいいっぱいだから仕方ないかもしれない。
でも、少しでも余裕が出来た時だけでも構わないから、多くの人々が周りの事を気に掛けてもらいたい。
もしも、絶望的な人生であっても、朝、顔を合わせた時に「いってらっしゃい」「おはようございます」、何かしてもらった時に笑顔で「ありがとう」、喧嘩している人がいたら、変な正義感で介入して、無理やり力で制圧するのではなく、相手の自尊心を傷つけないように言葉を選んで、穏やかな顔で「どうされましたか?もしよろしければ理由を聞かせて頂けますか?少し話すと冷静になれるかもしれませんし」と言ってみたり、下を向いて悲しそうにしている人が居たら、「どうしたんだい?」と声をかけて話を聞いてあげたり、相談に乗ってあげたり、ちょっとした事ではあるけれども、このような言葉を毎日のように浴びていれば、屈折した気持ちも、少しだけ朗らかになりませんか?
小さな事かもしれませんが、その小さな気遣いが積み重なって、心に大きな違いを生み出すと思います。
最後の最後で人間を止める部分って、そんなところじゃないですか?
普通に考えて、日々優しくしてくれている人達をコロそうと思いますか?
社会や人間に絶望するから、殺めるんじゃないですかね?
別に、その人達の人生を背負うぐらいの勢いで気に掛けたり、優しくしてくれと言っているのではなく、一人一人が小さなことを気遣って、礼儀正しく、親切にし合える社会であれば、今回の事件の犯人も、決してここまで悲観的にはならないと思うけど。
毎日、憂鬱な日々を送っていても、コンビニのレジの人の笑顔と「ありがとうの言葉」に癒されたり、車を運転していて、道を譲ってくれたりした時に「ありがとう」という気持ちになったり、優しい笑顔で席を譲ってくれたり、そんな日常の小さなことが、自分の心を癒してくれる瞬間ってありません?
人を傷つけるのも人間であり、癒してくれるのもまた、人間なんですよね。
この犯人の周りには、気に留めてくる人がいなかったのかな?という悲しくなるような思いもあります。
でも、許されない事をしていますけどね。
現実問題として無差別殺人については、突発的に起こるので、完全に防ぐ事は、きっと不可能だと思います。
警備を高めたとしても、事件の発生率を抑えることぐらいしかできないでしょう。
このような犯罪を抑えたいと本当に考えているなら、大人も含めて、再度、「道徳」や「人間の在り方」等を学びなおし、社会全体のモラルを向上させていく他、無いと思いますし、そちらの方が効果的なんではないか?と思います。
このまま社会全体の関心事が「自分の事ばかりで、他人の迷惑なんて気にしない」なんて状態であれば、第二第三の通り魔事件が発生するのは、時間の問題だと思います。
特に子供を好き勝手に育て、「公共の場所で騒いでいるのに、人の迷惑も考えず、注意もしない」若いお母さんお父さんや、これまでの家庭内での道徳教育の中で、親が子供の躾をまともに出来ないのに、学校にその状態で子供を送り出して、先生に指導されたら、「文句ばかり」言ってきた親は大いに問題がある。
その子供達が社会に出て、「一部」とはいえ、好き勝手にやっている現状をどう思っているのか?
マジで、「お前ら責任取れよ!」と言いたい。
その「子供の人生」と、「周囲に迷惑かけている」事について。
そして、躾を受けていない子供達も不幸になります。
甘やかして育てておいて、社会に出れば、一部の人間を除けば、その甘えた考え方は社会では通用しないですよね?
そのように育てられた子供達が「当たり前」だと思って今日まで生きてきた事が、社会では通用しないとなると、そのギャップに当然苦しむ事になり、その後の人生の難易度が高くなる。
実際にわがままに育てられた子供達が求める上司像は、我々が若い頃感じた上司像と、明らかに難易度が違うと思います。
昔の上司像だけでは足りず、更にあれやこれやと注文を付けていると思います。
会社を経営している友人の従業員の話を聞くと、びっくりどころの騒ぎでは無く、空いた口が塞がらない。
このままの状態でいけば、今の若者達が人の上に立つ時、恐らく我々世代より、遥かに上司や会社に求める事が多くなり、雇用するメリットはほとんどなくなると感じるかもしれない。
現に、今まさに外国人労働者を日本は受け入れて、大変な仕事をやらせているし、日本人の若い子を雇用するよりも、文化は違えど、生活のため、一生懸命やる外国人の方が良いと、企業側も変わりつつあり極力雇用しない方向に向かうように思える。
私が若い頃、鳶をやっていた時に教えた若い衆は今、会社を経営しています。
しかし、その若い衆は、現場で若い子にあまり教えていないようです。
「めんどくさい」「時間がない」という理由で教えていないようですが、他に理由があると私は睨んでいます。
どうも若い子達に、あまり期待もしていないようで、育てる気もないようです。
現に、「日本の若者が集まらない」「すぐ辞めてしまう」ので、育てても意味が無いと感じていてか、大変な仕事を外国人労働者にやらせて、穴埋めを行っています。
仮に日本人の若者を雇用しても、ある日突然辞めてしまうリスクが高い子が多いので、日本人の若者を真剣に育てておらず、結果として5年も経験のある子が、半年足らずの実績しか無いように思えるぐらいにしか進歩しておらず、職人のレベルも年々落ち込んでいるように思える。
実際に現場に行って、こんなことも知らないのか・・・という事がベテラン勢にもあったので。
「文句ばかり言う」「すぐに辞めてしまう」若い子を育てるよりも、若い子達と同等のお金で喜んで就業してくれる人達と、どちらを取るかといえば、後者になるでしょう。
そして、法律も改正され、若い子を育てるよりも、外国人労働者を育てるように企業は変わっていくでしょう。
このままいけば、若い子達が日本人であるというアドバンテージはなくなり、日本人の為の日本国ではなく、国という形は溶解していくことになる。
結局は、若い子達にとっても不利益につながると私は思う。
何故なら、外国人研修生をたくさん受け入れ、その研修生達からノウハウが流出すれば、それを元手に自分の国で起業するでしょう。
そして、発展途上の国の人件費では、将来びっくりする金額で物を作れるようになる。
そうなれば、甘いことばかりを言っている日本の若い子達が、結果として、これまで以上にグローバルな競争社会で戦わなくてはならず、ハングリーで「労働環境ブラック上等!」と考えている途上国の人達と戦っていかなければならない。
つまり、この人達とタイマン張って生きていかなければならない。
本当に戦えますか?
皆さんよりも労働環境が悪いにもかかわらず、ブラック上等で頑張っている人たちで、これからどんどん吸収していこうと考えている人達と。
何よりも、人件費が驚くぐらいの安価で、物を作れるんです。
技術さえ習得したら、日本人は敵ではないと考えている人達と。
圧倒的な価格競争の中で勝ち残るには、圧倒的な品質勝負するか?圧倒的なテクノロジーの差で勝負することになります。
そうなれば、単純労働の製品は、当然売れなくなり、更に二極化する世の中になりますよ?
日本国内でもたくさんの海外商品が販売されていて、消費者は安い物を喜ぶから、結果として単純労働で作られる商品などは国内ではなく海外の企業で作って貰っている。
これはアウトソーシングしているので、雇用が外に逃げているという事であり、日本の景気が低迷する要因になっているんです。
よく考えてほしい。本当に良いのですか?
そして、その結果、社会と上手く折り合いが付かず、自分の子供がドロップアウトする事になれば、その責任はとれるのか?
まあ、取れるんだったら、そもそも教育していきますよね・・・
そして、皆が皆、好き勝手にやり始めたら、真面目にやっている人達が、より馬鹿らしくなるでしょう。
そうなったら、もう収集付かない状態になる。もうなっているかもしれませんが・・・・
本当に一部の若い子の中でも、すごく良い子もいて、その子達からすれば、我々の若い頃よりもはるかに生きずらく、不公平感を感じると思う。
子供を育てる事は、とても難しいことかもしれないですが、親として「思いやりの気持ち」を教えてあげて、口うるさく言う事で子供に嫌がられても、「人に迷惑を掛けない子供」を社会に出すべきだと思う。
勿論、絶対に迷惑を掛けない子供等いないだろうから、その都度、親から子供へ指導をして、言い続けなければいけないと思う。
それが最低限、親が務める事だと思うし、それが出来ないなら、そもそも結婚なんてしてはいけない。
親が幸せになる為(世間体を気にするあまり、結婚の適齢期などを気にする女性を見ていると)に子供がいるという気持ちが大きすぎて、子供達の事を真剣に考えてないように思えてしまう。
それが出来ないのであれば、もしくはメンドクサイのであれば、そもそも「子供を産まない」という選択肢でもいい気がする。
勿論、「人口減少」によって、様々な産業に対しての経済的打撃があったとしても。
年金問題については、他の方法を検討していけば良い。
極論だけれども、
・「暴力犯罪者を量産するけれども、社会制度を向上させるか?」
・「平和な世の中だけど、貧乏・・・」
どちらが良い?と言われれば、私は完全に後者です。
貧しくとも、心が豊かであれば、人間は幸せになれると思っているので。
「襤褸を纏えど心は錦」ってやつですね。
みすぼらしい恰好をしているが、心は豊であり、人を外見で判断してはいけない。という意味にも繋がりますね。
このような事から、昔と比べて世の中全体が、あまりにもギスギスしているから、潜在的にこのような犯人と同様に考えている人はいると思う。
ただ、「最後の一歩」の部分で、踏みとどまっているだけで。
「友人」に恵まれていたり、「家庭」があったりで。
もしも、それらが崩れた瞬間、今まで大人しくしていた人達も「絶望感」に苛まれ、同じような事件を起こすかもしれません。
日本全体に相手を思いやる気持ちがあり、礼儀作法を身に着け、相手に敬意を払い、自分とは考え方の違う人間を寄ってたかって問答無用で排除するのではなく、皆で諭して、正しい道筋に導いてあげる気持ちがあったりすれば、このような事件は起りずらいと思う。
そして、そのような行いが皆の「笑顔の源」になる。
互い笑顔が出ること、笑顔が笑顔を呼んで、沈んだ気持ちも、この笑顔によって笑顔に変わるときもあります。
元手が要らない。しかも利益は莫大。
与えても減らず、与えられた方は豊かになる。
一瞬の間、見せれば、その記憶は永久に続く。
どんな貧乏人でも、どんなに裕福な方でも、これなしでは幸せになれない。
疲れた人にとっては休養、失意の人にとっては光明、悲しむ人にとっては太陽、悩める人にとっては自然の解毒剤となる。
「笑顔は幸せにする為の魔法のようなものかもしれない」って常々思っています。
まあ私の父親は、相手を徹底的に死ぬまで叩き潰すタイプでした。
相手が参ったをしていても、徹底的に二度と這い上がってこれないように痛めつけるタイプです。
水に流すというのは、恐らく無いと思います。
無論、暴力では無く、社会的に抹殺するという意味で。
こんな人、父だけでは無く、結構いるんじゃないかな?と思っています。
実際、総会で鬼の首でも刈ったの如く、管理会社の人に、徹底的に文句言っている年配の方拝見しましたから。
「管理会社数名」VS「総会出席者100名ぐらい」で、立場的に管理会社は同等に発言することが出来ないのをいい事に、味噌カス言ってましたから。
これって、「弱い者虐めじゃね?」って思えてしまうんです。言い方が酷すぎるので。
大人がこれだから、子供達だって、そうなってしまう。
全ての人に言いたい。
自分より力や社会的に弱い人間にだけ、無茶言ってばかりで、強者には媚びるような生き方ではなく、弱者であっても強者であっても、同じ様に相手を「思いやる」意見を言いましょう。
じゃないと、これからも社会的弱者が標的にされ続けるから。
一般企業の中でも、相手に知識が無いことをいい事に、意地悪するような大人なんてゴロゴロいる。
そして、事件の被害者である遺族の方々が「○ね」という言葉を使うのは理解出来るけど、大の大人が簡単に「○ね」という言葉を使うべきではない。
大人であれば、死なずに、真面目に生きる事を論すべきだと、私は思う。
大人がものすごい勢いで劣化している気がする・・・